白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ 〜若山牧水〜
今回は、短歌にみる孤立型アスペルガーの話です。
…いや、そんな大した話にはできないので、単なるザッチの戯言として、軽く読んでいただければと思います。
では早速。
白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ
戦前の日本の歌人、若山牧水の短歌です。
空の青にも、海の深い青にも染まらずに漂う白鳥(しらとり)。
哀しくはないのか…いや、きっと哀しいだろう…
この歌に初めて出会ったのは、私が小学生の頃でした。
大きな衝撃を受けたのを覚えています。
青空と海、潮の香り、水平線近くで切なく漂う白鳥が想像され、脳内にこびりついて離れませんでした。
そしてしばらくの間、ふとした瞬間に思い出されて、ほろほろと涙がこぼれました。
思春期を過ぎると、この歌を思い出すことは無くなりました。
しかしつい先日、10年ぶりぐらいに思い出したのです。
きっかけは、ヒロさんと一緒に日本海を見に行ったことです。
普段、瀬戸内海はよく見るのですが、それとは違う荒々しさ、力強さが日本海にはありました。
ヒロさんは、孤立型(アスペルガー)の特性が強く出ています。
『自分』というものをしっかり持っていて、意味もなく多数派になびくようなことはありません。
私はヒロさんに出会った当初、こんなにも誠実で優しいヒロさんが、友達もおらず孤独に過ごしていたことについて、可哀想だなぁと思うことがありました。
私はそれまでの人生で、友達は少なくてもいいけど居た方が良いし、優しい人の周りには優しい人が集まるものだ、と思い込んでいました。
小学生だった頃の私は、その短歌に触れ、似たような哀愁でほろほろ泣いていたように思います。
白鳥がポツンと存在している雰囲気がとても孤独に感じられ、当時周囲とあまり馴染めなかった私を白鳥という存在に重ねていました。そして、決して青くはなれない白鳥の存在に憂えていました。
年齢を重ね、私は徐々に周囲と馴染む術を覚えていきました。
しかし、それでも私はその短歌でほろほろ泣いていました。
馴染みたくない集団にもニコニコし、取りたくない行動を取ったりして、過剰に周囲を気にして生きるようになった私には、白鳥の存在はとてもまぶしく感じられました。
澄み渡った空、雄大な海という大きな存在を前にしても決して影響されることなく、白鳥は純粋に気高く、ただそこに在り続ける…。
とてもかっこいいと思いました。
私がもし白鳥だったら、空の水色と海の深い青の中間色を身体に塗って、漂っていたことでしょう。
いかに目立たず、自分の心を殺すかということに、とらわれていたように思います。
白鳥は私と違って強いなぁ…そういう思いで涙を流していました。
その後、少しずつ努力が実り、良い友達に恵まれた私は、自然とその短歌を思い出すことがなくなりました。とても充実した時を過ごしていたように思います。
しかし人生山あり谷ありで、良い時はそう長くは続きませんでした。
様々な要素が重なった結果、OCDになった私は、随分と心も身体も弱ってしまいました。
そんな中、私はヒロさんに出会いました。
ヒロさんのことを深く知るにつれ、ヒロさんの理屈を貫き通せる強さ、孤独を愛せる気高さが、とてもかけがえのないものに感じられました。
私には無い逞しさに、とても惹かれました。
「定型に合わせるつもりなんて無い」
そうヒロさんが言い切るのを聞いた時は、正直ショックでした。
しかし、この短歌の白鳥のことを思い出すと、ヒロさんの言葉の意味も理解できるような気がします。
私はしばしば、白鳥のヒロさんに、青いペンキをぶっかけようとしているのかもしれません。
もしくは、青いペンキの上手な塗り方を、さも必須の事のように教えてしまっているのかもしれません。
空や海の雄大さを説いて、白鳥を塗り潰そうとする行為は、果たして良い事なのか悪い事なのか。
(いや、俺は白鳥だからね?青いペンキなんて嫌だよ?)
そんな声を白鳥から聞いたら、私は…
最近、ヒロさんは『如何に周囲に波風立てず、無難に過ごすか』を課題にして過ごしてくれています。
不慣れな人前で無難に過ごすのはとても神経を使う行為だと思うのですが、頑張ってくれています。
いつの日か、白鳥が空高く思うままに飛び立てるように、私は傍で見守ろうと思います。
ヒロは周りに染まる気はありませんが、それだと外敵に襲われやすくなります。
ヒロは今まで自分の色を変えたくない為に、相手の色を認めていませんでした。
無難に過ごすという事と周りに染まるという事は似ているようで全く違うと思うのです。
自分の色を変える事なく相手の色を認め、波が立てば波に乗り、風が吹けば風に身をまかせるような生き方ができたら良いなと思っています。
凄く抽象的な表現ですが、無理せず自然にのんびりのびのび、頑張れたらいいなぁと思うのです。